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目次 1.欲望と欲望を超えるもの 2.幸福の基礎 3.幸福の段階論 4.幸福と悟り 5.生死を超える道 4.幸福と悟り さて、ここまで幸福の段階論を説いてきたら、やはり悟りのことも何か言っていいんじゃないのってね。ちょっと言うべきじゃありませんでしょうか。これが問題なんです、ね。これが聞きたいんです。幸福感なんてあなた、世の中ゴロゴロしています。悟りとの関係があるんじゃございませんでしょうかね。 あるいは日蓮聖人さんも言っているじゃないですか。「悟りこそ最大の幸福の瞬間。これが人生最大の幸福の瞬間だ」って、『日蓮の霊言』か何かの中で言っているじゃないですか。「この辺を言わないと高橋信次さん、片手落ちですよ」ね。「日蓮さんに悟りで負けてるように思われちゃいけない。ひとつ頑張りなさい。生前、あれだけ南無妙法蓮華経を批判したあなたであるならば、南無妙法蓮華経以上のことを言わなきゃいけない。そうでなきゃ本当じゃありません」こういう方もいらっしゃるでしょう。だからまあ、幸福と悟りについても、ちょっと言っておきましょう。 「悟りが最大の幸福である」。まあ格好いいけど、私はそこまで言い切る自信はありませんが、それは何でかっていうと、悟りという言葉自体にね、非常に抽象的で、あいまいな意味があります。「悟る」「悟った」ということが何を意味しているかね。これがやはり問題があると思いますね。悟りにもいろんな段階もあるし、形もあるし、方向性もありますね。だからこれを一概にどうこうは言えない。 たとえば、「悟った!」ってね、禅のお坊さんが「んっ!」、竹藪(たけやぶ)に瓦(かわら)の切れ端が当たって「力ーン」と鳴って、「あっ、悟ったー、悟ったー、幸福だ、私は」たって、「さあ、本当に悟ったかねえ、あなた」なんてね。こういうことありますね。そういうところでちょっとまあ誤解、六階、七階があるわけでございましてね。いきなり、「すなわち、その通り」とは言えないね。 あるいは昔、中国に偉いお坊さんがおって、ね、「猫に仏性ありや、またなしや」なーんて聞かれたことがあるでしょう。猫に生まれて、あるいは豚でもいいし、犬でもいいんですが、ニワトリでも結構ですけど、まあ、猫なら猫にしておこうか。弟子達が「猫に仏性があるかどうか」「猫もまた仏の命かどうか」って議論しておった。 そこへ和尚さん帰って来て、その猫を一刀のもとに斬ってしまった。そして何を教えたかっていうと、「形に執(とら)われてはならん。この本性を見なさい。仏性の本質を見なさい。この、猫だ、人間だという形に執われてはならん」って示したと、まあ、悟りを示したと言われているね。 しかし、まあそれも考えてみれば、「そうか和尚さん、形に執われていかんのか。猫を一刀のもとに斬ってしまえば、そうか、猫という形はなくなって、それで仏の本質が現われてくるんか。そうか和尚さん、あんたの首も斬ってやろうか」って、パサーッと斬られたらどうするんだ、ね。そういうことあるわな。だからまあこの辺なんか、悟りとは言い難いとこあるねえ。 あるいは達磨(だるま)大師に、どれだけの修行、精神修行があったか。それは後代の私があれこれ言えるもんじゃございませんが、ただ面壁(めんぺき)九年やったからどうこうと言うんじゃおかしいねえ。 あるいは達磨大師のお弟子さんですかね、お弟子さんが雪の中で、自分の肘(ひじ)を斬ってね、「これだけの決意で私は来ておるんです」。そして肘を斬って差し出して、達磨に教えを乞う。そして、「和尚さん、私は心が苦しくてしようがありません。心が迷ってしようがありません。この心を何とかしてなだめたい。何とかして平安を得たい。どうしたらいいのでしょうか。私はこれだけ命がけです。自分の肘を斬って差し出すまで命がけです。何とかお答えを」。面壁をしておった達磨は、ギョロッとその目を剥(む)いて右側を向く。そして、「よし、お前の心を治してやろう。だからその心をここへ持ってきなさい。出してみなさい」。そしたらお弟子さんがね、「いや先生、それちょっと難しいです。出せないです。出せないです」「なに、出せない。だってお前、『心が乱れておる。苦しい』って言ったじゃないか。苦しいなら実体があるはずだ。その実体を出してみよ」「いや先生、この辺です。心臓、心臓ね」「お、心臓か、じゃあナイフで刳(えぐ)ったろうか」「いや、そりゃあ困ります、達磨先生、それは許してください。いやこの辺にあるんですが、それが出せないんです」「そうか、んじゃあ無いのと一緒じゃないか」「言われてみりゃ無いのと一緒ですね」「じゃあ、無いもののために、お前は苦しんどるのか。その心なんか無いじゃないか。あったら出せ。無いならどうしようもないじゃないか」「和尚さん、わかりました。心は無いと知りました」「そうか、わしはもうお前を治したぞ。悟りを与えた」なあーんて、こんな話もありますね。 これはちょっと言葉の遊戯がありますね。この辺が禅宗が形式に流れたっちゅうか、観念遊戯(ゆうぎ)に流れたところですね。まあ、こんなのは窮地に追い込まれてね、「和尚さん心を治してくれ」って言われて「心、出してみい」って、「そんなのありません」「じゃあ治す必要もねえじゃねえか。心無いなら、心治すこともない」こんなことですね。だからまあ、これもある程度だけど、それ以上じゃないね、どうしたってね。そういうことが言えるだろう。 あるいは釈迦の時代にもありましたね。そういう修行者はインドにいっぱいおってね、とにかく非想(ひそう)、非非想(ひひそう)といってね、想いを否定する。その否定した想いをも否定する。そしてその想いをも否定する。否定の否定の否定の否定。とにかく想いを消してしまうことが悟りだ。非想、非非想ってね。こんな人いたんだよ。 とにかく人が来るだろう、前に座る。「お前、何か想っとるな」「ハイ、想っています」「その想いを否定せよ」「ハイ、否定しました」「じゃ、その否定した想いをまた否定せよ」「ハイ、否定しました」「その否定した想いをも否定せよ」「ハイ、否定しました」「それをも否定するのだ」「ハイ、否定しました」ってね。こういう人ですね。こういう、まあ、これも遊戯ですね。こんなのに入っていきますね。 あるいは、サンジャヤっていうウナギ法師とかね、ウナギ論師と言われる和尚さんがいて、この人は「何でも疑え」と、とにかく懐疑論者でね。ああ言えば、こう言う。こう言えば、ああ言う、ね。 「先生、宇宙は無ですな」と言われたら、「いや、無とは限らない」「じゃあ、宇宙は有ですな」「いや、有とも限らない」 「先生、これは朝ご飯ですな」「いや、朝ご飯とは限らない。なぜなら、朝昼兼用ということもあるからだ」「そうですか、先生、これは晩ご飯ですな」「いや、晩ご飯とは言えない。朝ご飯かもしれない。なぜなら、朝、昼断食すれば、これが朝ご飯となるからである」 「先生、私は悟ったでしょうか」「悟ったかもしれない。悟ってないかもしれません」 「先生、宇宙で一番偉い神様は、高橋信次という人でしょうか」「高橋信次であるとは限らない。ないとも限らない。わからない」 「先生、神と仏とは一緒でしょうか」「一緒かもしれない。一緒でないかもしれない。もし神と仏が一緒ならば、トイレットペーパーとなにの手とが一緒になるであろう。そうとも言えない。そうでないとも言えない」、ね、いろいろ言う。 「先生、大地は動いているのでしょうか」「動いているようにも思える。動いてないようにも思える。すべてのことを疑ってかかりなさい」ま、こういうふうに言うね。 「先生、そうすると先生のお言葉も疑ってかかっていいんでしょうか」「いや、先生の言葉を疑おうとする、お前の心をも疑いなさい」「あ、そうですか」こんなことをやっている先生がおりましたね。えー、こういう人がいたんですよ。 こういうふうにね、悟りというものもね、冗談めかしていろいろ話したけれども、いろいろありましてね。必ずしも悟りを得たいということを、幸福ということを、そのままね、言葉だけで捉えてはいけないね。だから悟りとは一体何なのかということを、もうちょっと掘り下げてみる必要は僕はあると思うんですね。それでこそ、「悟りが最大の幸福である」という言葉の意味が生きてくると思うんですね。 じゃあ幸福の基礎となるような、あるいは幸福の本質となるような悟りって一体何でしょうか、ね、みなさん。どういう悟りを開いたら人間は幸福になれるんでしょうかね。 ゴータマ・ブッダという人も結局、悟ろうとして努力したね。何で悟ろうとしたかと言うと、悟ったら幸福になれると思ったんだね、違うか。そうだねー。悟ったら幸福になれる。 じゃなぜ悟ったら幸福になって、悟らないと幸福になれないか。悟ってない者って何かといえば衆生(しゅじょう)ですね。この地上で生きている人間、これが悟っていない。 「見よ、人びとは戦争で明け暮れている。そしてある者は病で死に、ある者は金欠病で苦しみ、ある者は愛人をつくって苦しむ。このように世の中は苦しみで満ちておる。見よ、あそこの老人を、やがて死んでいくであろう。自分の死しか思っていない。見よ、あの身重(みおも)の女を、戦乱の地から逃げたいと思っても、お腹が大きいんで逃げられないでいるではないか。そのお腹が大きい理由も、あれだけ憧(あこが)れ、憧れて想った男と結婚して、その場はいいと思ったが、しばらくすると身重になって、あんなに苦しんでおるではないか。このように世の中はすべて苦の種である。苦の種だ。苦の種だ。苦しみが満ち満ちておるではないか。なぜ人間は生まれてくるのか。生まれたくもないのに、生まれてくるではないか。生まれてきて、生きていかねばならんのではないか。生きていくということは、なんてこんな苦しいんだろうか」ね。 「また、人間は年取っていくではないか」「年なんか取りたくない。二十五は過ぎたくない」『天国と地獄』で、二十五でクリスマスケーキだと言ったら、二十六、七の女の子は悲しんだ。二十八はもっと悲しんだ。三十過ぎた女(ひと)は開き直った。ま、いろいろあるけれども、人間はなぜ年を取らねばいかんのか。こうした苦しみ、特に女性にとっては、永遠の若さというのが魅力である。もし二十五歳で年を取らないようになる秘法が、秘薬が出たならば、もう何十億、何百億積んでもいい、そう思うでしょう。女性はね、そう思うかもしれない。 男性にしてもそうですね。年取って、頭つるつる禿(は)げちやってね。いや、若いのも最近いるけどね。まあ、若いのもいるけども、アートネイチャーのお世話にならねばいけない。アートネイチャーでも、高いのは百万、二百万する。しかし、安いのは二十万ぐらい、あるいは十万ぐらいで売っている。で、安いアートネイチャーだと洗濯機の中に入れて回しちゃう。高いやつだと、もっと手入れをしなければいかん。まあ、いろいろあるけれども、えー、何の話がしたいかというと、結局、年を取るっていう苦しみがある。頭が禿げる。「なんで禿げるんだろうか。ふさふさしていてもいいじゃないか。頭禿げたライオンなんか、あんまりおらんじゃないか。なんで私は禿げるんだろうか」 あるいは、足が短いということで苦しみを持つ。「足さえ長ければ。キリンはあんなに足が長いじゃないか。なのに私は、なんでこんなに足が短い。両親の短足を恨(うら)む」まあ、こんな人もいますね。これは「生」でしょうね。生きる苦しみのうちでしょうが、「生老」が終わって「病」ですね、病の苦しみありますね。今は、もう病気の百貨店ですね。大学病院では毎日研究、病院ではもう病を探すことに明け暮れています。昔みたいにコロッと死んどりゃあよかったものを、病いっぱいつくっちゃって、薬いっぱいつくっちゃってね、もう大変ですね。 エイズなんていう病気までつくっちゃいましたねえ、エイズ。アメリカのホモさんがだいたい多いようですが、勝手にね、性の解放して、勝手に男女の乱れた生活つくって、男性が女性にもう魅力感じなくなって、もう女性なんかもう自由に手に入る。金さえ払えば手に入る。もう手に入らないものやりたいちゅうんで、もう同性誘っちゃってね、男の人とどうやってするか一緒に考えて、とどのつまりがあなたね、エイズでございます。ねえ、こういうふうになって苦しみつくりますね。こんな新種の病気つくっちゃいます、自分でね。こういうことがあります。 あるいはこれ以外にもいっぱい病気はあるんですね。癌(がん)なんてずいぶん多いですね、まあ癌。昔はそんなに癌なんかなかったんですがねえ、癌ができる。ひと昔前は、結核がものすごかったですね。結核が治せるようになったから、人類は幸福になったかちゅうたら、もっと他の病気いっぱいつくっちゃったね。どんどん、どんどん病気ができちゃった。そして贅沢(ぜいたく)病なんかいっぱいできちゃって、カロリーの取り過ぎで死ぬ。こういうこともいっぱいありますね。あるいは、僕みたいに豚肉の食べ過ぎで死ぬような人もいる、ね。まあ、こんな人もいるでしょう。 あるいは、勝手に何というか、人間は満員のね、ラッシュの中で通勤しなきゃいかんと決め込んじゃって、そして苦しんでいる人もいる。それで病気になる人もいるね、過労になる。こういうふうに病というものから、逃れられない。 あるいは、「病」のあとは「死」ですね、死ぬ苦しみ。これは救えないのか、ね。「高橋信次なんか、生前あれだけ多くの人を救ったじゃないか。救った人も結局、みんな死んだじゃないか。救ったと思ったあなたも死んだじゃないか」。ところが死んだと思っても生きているんだけどね。まあ一応、死んだことになってる。 この世的な死は悲しいね、葬式でみな泣くね。子供生まれたら、みんな喜ぶ。けれども葬式は泣くね。ところが、あの世から見りゃあ、子供が生まれるときは向こうの葬式だから、向こうは泣いている。この世で死ぬと、向こうでお迎えしているのね。「あー、やったやった」ってね。天上界は天上界で、「よー戻ってきた」ってやってるし、地獄界は地獄界で、「あー、これでまた一人増えたわー」とかね。「ちょうど地獄の釜(かま)の鍋(なべ)が煮えたぎっとったとこで、ここで一人堕(お)ちてきたら、これでわしらも餌(えさ)にありつける」ちゅうて、「どれどれ」って、待っておる人もいる、ね。やっぱり向こうでは喜んでくれている。こういうこともあるけれども、死という関門ね。死んでいくっちゅうのは悲しいね、なんで悲しいのかわかんないけど悲しい。たぶんその悲しさの原因は、もう逢えないちゅうことだな。今日までねえ、一緒に話していた人と、明日からもう話ができない。語ることもできない。悲しいですね。 しかし、旅とは違うんだね。異国に行って、旅立ってね、駐在でもしているか、そういうことで逢えないと思えば悲しくもないのに、死んだと思うと悲しいね。もう二度と逢えない。可能性がないと思うからね。旅行して逢えなくとも、可能性があると思うから悲しくない。ところが、死んだら可能性がないと思って悲しいね。 ところが、私みたいに復活すると、また可能性が戻ってきて、悲しくなくなったりしてね。嫌がられたりして、今度はね。「あー、還(かえ)るよ」って、うるせえのが還って来て、「ああ、大変なことになった」ってね。死んでくれてすっきりしてたのにね、還って来よった、ね。「高橋信次の復活なんてあって、もう大変なことになっちゃった。せっかくの商売があがったりだー」なんてねえ。「あいつがいたおかけで、もう大変商売被害があったので、死んでくれてホッとしたのに、また還って来た。どうしてくれるんだ」こういう人、いっぱいいるでしょうね。 あるいは、私の復活を認めたら商売あがったりの人なんて、この本が出たら、これ七冊目かね、よく知らないけど八冊目かね、八冊目だなあ、八冊目の本ですが、「八冊も出しよって」ちゅうてね、「これで日本の本がどれだけ伐採(ばっさい)されたと思ってるんだ」なーんて怒る人もいるかもわかんない。「おかけで私の商売があがったり」、ね、こういう人もいると思います。まあ、いろいろあるけど死は悲しい。こういう生老病死、これがあるね。 これに合わせた、四苦八苦の八苦もありますね。もっと嫌な奴と会う苦しみとかね、好きな人と別れる苦しみなんて、もうお釈迦様ってよっぽど被害妄想か、やっぱり何でしょうかねえ、ペシミストだったんでしょうかね。苦しみいっぱい見せていますね。 嫌な女に愛される苦しみね。好きな女に逃げられる苦しみ。みんな思い当たりますね。どうですかあ、心に、胸に手を当ててください。思い当たりますね。僕も思い当たりますよ。思い当たるぐらいです。 それから、儲(もう)かる商売を逃すやつね。儲かる商売、もうちょっとのところで逃す。魚だと釣り逃すね。大きな魚、逃げた魚は大きい、ね、釣れた魚は小さい。こんなのいくらでもありますね。 隣りの芝生はよく見える。隣りのテレビは赤い、ね。「ソニーのテレビかしら」、ね、こういうのがあります。まあ、こういうふうにいろいろありますが、何が言いたいかというと、結局はですね、そういう生老病死という苦しみから解脱(げだつ)することが幸せである。 お釈迦様は聞きました。「私はカピラ城に留まってもいい。もし私に次の問いに答えてくれる人がいたら、カピラ城に留(とど)まって、私は出家を思い止(とど)まる。人間はなぜ生まれてこなきゃいかんのか。生きなきゃいけないの。なぜ老いなきゃいけないの。なぜ病気にならにゃいかん。なぜ死ななきゃいかん。これ、答えてくれ。答えてくれる人いたら、納得したら、僕は王位を継(つ)ぐだろう。王を継ぐだろう。だけど、答えてくれる人がいなければ僕は出家して、その答えを求める」。そして、難行苦行に入っていきますね。そういうことがありました。 結局ね、お釈迦さんが考えていたのは幸福論ですよ、ね。幸福論なんですよ。仏教なんて古めかしく言うけど、現代で言やあ、あなた、幸福を求めるための方法論を探究しとったんですよ、どうやったら幸福になれるかね。悟りを求めるちゅうことは悟りだけの悟りじゃない。悟りを求めるちゅうことは結局、解脱(げだつ)すること。この世の苦しみからどうやって逃れられるのか、これを知りたかった。このために一生懸命、修行したんですね。 針を体に通したらね、悟れるか。火あぶりになったら悟れるかね。動物につつかれたら、食べられたら悟れるかね。茨(いばら)の中で瞑想したら、座禅したら悟れるかね。こんなこといろいろやってみたけど悟れない。水の中で呼吸止めたら悟れるか、悟れない。ね、いろんなことをしました。火の中をくぐってもね、悟れない。いろいろやって、結局ね、肉体と戦っているうちは悟れないんですね。 ところが釈迦も、その肉体と戦う、霊肉の戦いちゅうのを忘れてね、肉体舟の意味、肉体の意味を考えたときに、「ははあ、これは大きな知恵だなあ、肉体が与えられているってことは、大きな知恵だなあ。そして肉体があるからこそ魂というものも、さらに勉強ができるんだなあ。肉体があるということは幸福の源泉(げんせん)なんだな。この肉体に宿っているという自分を別の角度から知ることができるんだな。そして、それを前提としながら、永遠の魂の修行というものを考えたときに、そこに人類への福音があるな。そうか、わかったぞ、肉体を持ったままで生きてゆく中で、その肉体ならぬもの、心の正体というものを明らかにして、その心をコントロールすることこそが悟りへの道なんだ。解脱することなんだ。肉体を滅却(めっきゃく)することじゃない。肉体を粗末にすることじゃない。肉体の中に宿っているその心を、自由の天地に解放させてやって、宇宙大に広げて、そして伸び伸びと生かしてやること、これが本当の幸福なんだ」、釈迦がこうやって、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で膝頭(ひざがしら)をパタッと叩いてね、「やった、がってんだ」と、こう思ったわけですね。そして世に広げんとしたわけですね。ま、こういうことがあります。 だから結局ね、悟りというのはそういうことでね、この世の苦しみの原因を探究し、その原因を取り除くこと、これに彼は求めたわけですね。幸福になるためには、苦しみの種を播(ま)かぬこと。あるいは苦しみの種を発見し、その種を除くこと。何か自分の心に苦しみをつくっとるのか、これを見つめること。そして、その苦しみの原因となっているものを取り除くこと。原因と結果というのは連鎖している。因果応報(いんがおうほう)、原因・結果の法則です。作用があれば反作用です。そういうふうに連鎖しています。 愛人関係で苦しむのは、その前に苦しみの原因つくったからです。違いましょうか、子沢山(だくさん)で苦しむには、それだけ夫婦の営みがあったはずです。ね、そうでしょ。だから子沢山を恨んじゃいけない。ね、そうでしょ。お腹がすくのは、亭主の稼(かせ)ぎが少ないからです。ね、そうでしょう。いい会社に勤められなかったのは、学生時代に勉強しなかったからです。違いますかね。病気をしたのは、体を大切にしなかったからです。ね、そうでしょう。異性にもてなかったのは、親の顔が悪かったんです。あ、そう言っちゃいけないね、そうじゃない。親の顔は悪かったかもしれないけれども、しかしその後、自分が趣味を洗練しなかった。あるいは、心根が悪かった。ま、いろいろあるね、いろいろあります。 こういうふうに、世の中の苦しみには原因が必ずあります。必ず原因に突き当たるということですね。釈尊が教えたのは、とにかく疑問追究、原因探究です。 「なぜあなたは苦しいか。なぜそなたは苦しいのか。それを徹底的に追究せよ。そして追究してその種に打ち当たったら、どうしたらそれを取り除けるか。もしその種を取り除くことができないならば、それに対する心がけを変えることによって、その不幸感覚を、幸福感覚に変えることができるのではないか。まず、その原因、苦悩の原因を探究して、取り除くものは取り除く。取り除けない場合には、これに対する心のあり方を変える」こういうことですね。 「人びとが戦乱で苦しんでいる理由は、一体何なのだろうか。それは人生の本質、また魂の本質、永遠の転生輪廻、こういうことを知らないからだ。だから本来ならば、人びとの心に平和な思いを取り戻すことが大事である。しかし、その原因を今、取り除けないのならどうするのか。そうすると、私たちは、私たちのできることをやっていくしかない。 そうしたらどうなるのか。戦乱を嫌だと思う者たちは、悟りの学びに入るべきだ。サロモンとなって修行していくべきだ。そして人びとに法を伝えるべきだ。そうすることによって、戦乱のマイナスを少しでも緩和(かんわ)できるのではないか」そういうことを考えるわけですね。 こうして結局ね、悟リとは幸福そのものなんですね。あるいは、幸福を求めるものと一緒だった。そこが釈迦の出発点だったんですね。そういうふうにね、みなさんね、結局ここに当たるんですよ。お釈迦様が言った通りね、苦悩の原因をまず発見すること。そして、その原因を取り去ること。取り去ることができなければ、それに対する心のあリ方を変えること。そしてこの両者ができたなら、今後はそうした苦悩の原因を、種を、心の中に播(ま)かないこと。心の中に植えないことです、苦悩の原因をね。そういうこと。 現在、あるいは過去を、そういうふうに探究して、未来をも制する。そして、そのための方法論が何かっていうと、これが八正道(はっしょうどう)だというんだね。正見ね、正しく見る。正しく語る。正しく思う。正しく仕事をする。正しく生活をする。正しく精進する。正しく念じる。正しく定に入(い)る。こういう八正道だね、これでもってその心の間違い、あるいは原因ね、悪しき種の原因をこれで発見する。この八正道で発見するんだ。自分の心の中を探究するんだ。こういうことですね。苦悩には必ず原因があります。そのために、この八正道でそれを発見します。これが大事なんだと教えておるわけです。 こういうふうにいろいろ言ったけど、結局ね、悟りと幸福、これを解く鍵は、この八正道にあるかもしれないね。そういうふうに私は思います。 5.生死を超える道 これで本章も最後になるけれども、今、八正道の話しましたね。八正道の話をしました。 結局ね、こういうことなんですよ。生死を超える道と言ってもね、ここにやっぱり行き当たるんだな。結局そういうことだ。悟りと幸福とは表裏(ひょうり)一体、あるいは同一のものである。そしてそれに至るためにはどうするかというと、苦悩の原因、人生の悩みの原因を発見すること。究明(きゅうめい)すること。そしてそれが取り除けるなら、取り除く。取り除けないなら、それに対する心のあり方を変える。そして未来への予防としては、苦悩の種を心の中に播かないようにする。こういうことが釈迦のひとつの悟りでしたね。そしてこれを日々、そういうふうにしていくためには、八正道というモノサシを使った。そういう自己観照(かんしょう)のモノサシを使った。 こうして生きていくっていうことは何を意味するかというとね、これが結局ね、生死を超える道だったんですよ。釈迦が教えていた教えは、結局、この世とあの世を貫(つらぬ)く幸福なんだな。この世でも幸福、あの世でも幸福、という生き方なんだな。普通はこの世とあの世に落差があってね、段差があって、この世で幸福で、あの世で不幸。この世で不幸であの世で幸福っていうのいっぱいあるんだな。 イエス様の系統なんか、この世で不幸で、あの世で幸福っていうのをいっぱい求めているね、みんな。「この世じゃ不幸さ、俺たちはみんな磔(はりつけ)さ、火あぶりさ、逆さまさ、もう槍(やり)で突かれるのさ。でもあの世で幸福さ」ったら、あの世でも槍で突かれたりしてね。まあ、わかんない。意外にわかんないんだけども、そういうこともあるでしょうね。 ただまあ、お釈迦様はやっぱりこの世でね、人間的にも向上し、発展し、完成していく中に、あの世での発展のよすが、契機(けいき)を見出(みいだ)さねばいかん。そういう人生でなきゃあいかん。ま、こういうことを常々教えてましたね。 「この世だけが不幸で、あの世で幸福であることもない。この世が幸福で、あの世が不幸であることもないであろう。真の幸福というものは、輪廻(りんね)していくものだ。この世で人のために尽くした人は、あの世で尽くされるだろう。愛を与えた者には、愛が与えられるであろう。憎しみを与えた者には、憎しみが返ってくるであろう。生死を超え、生死を貫いた人生を生きるためには、悪の種を今世で播(ま)かんことだ。他人に対してまず、優しくしなさい。他人をいたわりなさい。他人を害さないためには、常に心を中道におきなさい。真ん中のまっすぐな道の中に心を置きなさい。片寄らない中道の中にこそ、自分の発展の道があり、他人を害さない道がある。それが自分を幸福にし、他人を幸福にする道である。大勢の人間の、たいていの人間の不幸の種は、結局、自分を幸せにせんとして他人の幸福を、幸せを踏みにじっているところではないのか。自分さえよければという思いで他人を苦しめていることではないのか。自分勝手に理想を抱いて、その理想が実現されないからといって苦しみをつくる。ところがその理想が実現されると、本来は他の人が成就(じょうじゅ)すべき希望、理想を奪うことになったのではないのか」。こういうことですね。 結局人間は、自分自分ということで、自分中心に生きていきます。そうであってはいけない。まず他を害さず、自分をも害さない。自分も幸せで、他人も幸せ。これを利自即利他(りじそくりた)と言いますね。自分を利することが、同時に他人を利していく生き方です。これは釈迦の考え方の根本ですね。これが、やはり中道をいくための基本条件です。 これが片方だけになってしまうと間違いですね。利自、自利と言ってもいいですけれども、自分を利することばかり考えていると、我利我利亡者(がりがりもうじゃ)のエゴイストになって、世の中おかしくなっていきます。ところが、自分を利するという考えを忘れて、他利ばっかりやると、この世がこの世じゃなくなってきますね。非常にあの世的なこの世になってしまって、非常に不思議な世界になっちゃいます。みんなお布施(ふせ)ばっかりしている世界になっちゃって、おかしいですね。御進物きたら、たらい廻ししてね、もう廻しばっかりして、「貰(もら)い物ですが、貰い物ですが」なんて、世の中ぐるぐる回ったりして。そうなるかもしれない。 やはりそうであってはいけないんでね。決して、利自、自分を利するということをね、エゴイストのように思っちゃいけないんです。それは、自分は心を与えられています。神様から自由自在にせよということで、心を与えられています。それは、自分は心を、自分の責任でもって治めていきなさい、という意味ですね。神様の代理として、自分で自分の心を治めていきなさい。そのためにあなたに鍵(かぎ)を与えるんだよ。その鍵を使って生きていきなさい。まあ、こういうことですね。これを言うわけです。 だから結局ね、この利自の部分ね、自分を利するという部分を簡単に捨象(しゃしょう)してしまうと、神様の本来の目的使命と外れるんですね。神様はすべての人間に幸せになってほしいと思う。それも一律な幸せじゃなくて、それぞれ自分の個性に基づいた幸せを享受(きょうじゅ)してほしいと思ってるんですね。それならば、個性に応じた幸せを追求することはいいことなんですね。そうしなきゃいけない。けれども、個性に応じた幸せを追求する中で、他人をも害さない道、そういう大調和の道を行きなさい。こういうふうに教えておるわけです。この辺にね、幸福の本質のあり方がみえるんだな。 結局ね、自分を利することが他人を利する。自分をつくっていくことが世界を救う。こういう考え方が根本にあるんだね。今の末期の宗教、世紀末の宗教は、これほとんどないよ。完全に自分だけよきゃあいいっていう、他力信仰ですね。他力本願。 「とにかくなんかくれー、なんかくれやー」ってね、「欲しいやー、なんかくれやー」ちゅう他力本願の教えもあります。あるいは利他、あんまり少ないけどね、最近少ないけど、まあとにかく自己犠牲(ぎぜい)を要求する教えもあるかもしれない。献身(けんしん)奉仕ばっかり要求する教えね、と言って結局、お金まき上げているだけだったりしてね。そういうこともあるし、あるいは、そうだね、インドのやっぱりヨガの肉体行なんかもね、その釈迦の時代の肉体行、苦行、これなんかも結局、自己犠牲かもね。自己犠牲がちょっと進み過ぎて、「とにかく自分を捨てることが悟りなんだ」ということでね。ちょっと行き過ぎたかもしれないねえ。あるいは、ヨーロッパといいますか、ユダヤの方だと、生(い)け贄(にえ)の子羊だね。自分が犠牲になって、生け贄の子羊になったら世の中よくなるなんて、そういう考えもある。ま、その考えの中には高尚(こうしょう)な考えもあるんだよ。あることはあるけども、必ずしもトータルじゃないね。 お釈迦様の昔話の中にね、そらあ、自分の身を投げ捨ててね、人を救った動物の話とか、いっぱいありますね。あるいは、虎の、飢(う)えた虎の子のために自分を投げ捨てた、何だか布施太子(ふせたいし)かな、なんかの話ってあるね。布施太子っていう人。釈迦の過去世の名前の人でね、それが修行しておって山道を歩いとると、崖(がけ)の下から虎の声が聞こえる。見たら獲物(えもの)がなくて、飢えとるんだな。虎の子たちが。可哀相になって布施太子はね、自分の体を投げる。身を投げて、投じて死ぬわけね。それで虎の子はそれを腹いっぱい食べたっちゅう話さ。それほど慈悲深いちゅう話。 ま、ただこれはたとえ話であってね、自我我欲のままに生きておる人が多い時代だったから、そういうたとえ話をしたけども、まあ、実際はそうしていいわけじゃないんだな。それぞれの人間が、自分の体投げ出しトンカツになって食われていいわけじゃない。これは人食い人種の世界ですよ、ね。人食い人種やれっちゅうわけにはいかない、現代でね。やはりそれぞれの個性、あるいは何と言いますかね、自覚、あるいはプライド、こういうものを許しながらね、やはり相互が調和して、発展していくこと。これが大人の知恵ですね。そうでしょう、ね。こういうことです。 だから結局、幸福の本質は、生死を超える道と一緒ですね。この世でも、あの世でも幸福な道、ここにあるわけです。これは結局、他人を害さず、自分をも利していく。自分を利しながら他人をも利していく。こういう生き方ですね。そして常々、八正道を中心に中道に入(い)るということ。そして中道から発展していくんでしょう。違うんかな、そういうことだね。それからあと、まあいろいろ、六波羅蜜(ろくはらみつ)だとか、いっぱいあるけれども、めんどうなことはやめて、結局あとはどうすりゃいいかっていうと、法灯でしょ、法をともすわけでしょ、ね。自灯明、法灯明ですね。自分の中に灯明をともし、他人にまた法をともしていく。神理というものに基づいて生きることだね。 結局ね、だから、幸福の基礎は結局、神理です。神理に基づいて生きる。神理の中に生きる。神理に応じて生きる。従って生きる、ね。これが結局、生死を超える道であり、幸福の本質でもある。そういうことだな。これが今日の結論ですよ。結局ね、幸福は神理にあり。神理の中に幸福があるんだ。まず、神理の探究なくして、神理の学習なくして、幸福はありえない、そう思え、ね。 こういうことで第1章がめでたく終わりました。じゃ、また明日。
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斡旋する本質(エッセンシャル・オン・シーツ) アンコモン 自然 コスト6 呪文 ■クリーチャーを1体選び、自分の山札を見る。その中から選んだクリーチャーよりコストが少ないクリーチャーを1体選び、バトルゾーンに出す。その後、山札をシャッフルする。 ■アンサートーカー(この呪文を唱える時、この呪文を確認せずにこの呪文のフレーバーテキストを読み上げられた場合、この呪文のコストは3になる) (F)カードの能力の本質だけを伝え、それによってデッキの中のコンボに気がついてもらう---アン 作者:アンちゃんのノリの人 アンちゃん26の秘密を呪文にしてみたシリーズっす! 今回は「斡旋する本質(エッセンシャル・オン・シーツ)」っす。 クリーチャーを使うコンボを促進するっす! ビートからコントロールまで使えて「アンサートーカー」すると凄まじく強そうっすけど、ご愛嬌っす。 評価 名前 コメント
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本質はそこではないがまあ及第点としようの会 本質はそこではないがまあ及第点としようの会(Though it s not essence, I would like to take the middle road Association, TNITA)とは、「特定の事柄において、それが本質だと認められない場合においても、ある程度の妥協によって少しずつ前に進んでいこう」を理念とするコオロギの集合体である。 活動内容 本質はそこではないがまあ及第点としようの会自体が行う組織的な活動は少なく、専ら分散した個人が役割を担っている。 「本質はそこではないがまあ及第点としよう」を会以外の集まりで発言する 「本質はそこではないがまあ及第点としよう」と書かれたビラを配る ポケットティッシュの一番下の紙に「本質はそこではないがまあ及第点としよう」と書いたものを配る 小学生の遅刻の言い訳の為に路上に動けない老婆を配置し、助けさせるまでの一連の映像を記録する 水上置換法を用いたポリグラフィックエネネネンの回収 高校の倫理の授業で、誤放送を装い放送室から「本質はそこではないがまあ及第点としよう」といった音声を3回流す 定期的に小河野街徳太郎の集い支部に潜入し、本質はそこではないがまあ及第点としようと言って去る 貧困層の住民たちにWindows95を無料で提供する ホーム画面に「本質はそこではないがまあ及第点としよう」の文言をあしらった壁紙を、言語設定をヒンディー語に、140桁のパスコードを設定したのち299回連続で入力に失敗した充電切れのiPhoneを日本の自称進学校のガキに配る ノベルゲーの考察ツイートに捨て垢で「本質はそこではないがまあ及第点としよう」とリプライを送る 小学生の周りに偶然に見せかけた必然を置く 東京の教育機関近辺で受験シーズンに拡声器などでデモを行う勢力に、自由落下ラーメンを精錬した出来たてのラーメンを配ることで無力化する 本質はそこではないがまあ及第点としよう、と言い合う(これをする事により、自らの行いが完全に本質に至っていないことを認識させ、さらなる高みを目指す)
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中根先生「神経症克服指導集」index 第1回(平成9年10月収録) ・強迫観念「人から危害を加えられるのではと心配」という人へ 第2回(平成9年11月収録) ・パニック障害、死の恐怖の解決。五不怖の話。 ・手の汚れが気になって消毒し続ける。 ・女性や偉い人の前だと手が震える。 第3回(平成9年12月収録) ・不眠症の人に黄金食の指導。くよくよする心を取り除く。 ・自利利他を実行した時、見返りを期待してしまう。 ・正しく生きようと思うと疲れてしまう。 ・「自分」として生きたい。笑顔を作っていると自分を見失いそう。 ・不安発作がおきる。 第4回(平成10年1月15日収録) ・日の善悪など迷信にこだわってしまう。 ・強い孤独感を感じる。 ・対人恐怖、遅刻癖、感情の麻痺、心の弱さ。 ・宗教は嫌いだ。 ・死よりも無常の幸福が気になる。 第5回(平成10年2月収録) ・細かいことにとらわれる。生き方療法第1法則「人生の目的」。 第6回(平成10年3月収録) ・生き方療法第2法則「因果の道理」。 第7回(平成10年4月5日収録) ○生き方療法第4法則「真実の自己」 ・合掌する(仏様に手を合わせる)心の大切さ。 ・パニック障害(弱さは受け入れるべきか、否定すべきか)。 ・人目を気にしてあがる。 ・小便器で小便ができない。 ・試験が忙しくて聴聞できない。 ・生き方療法に半信半疑です。 第8回(平成10年5月5日収録) ・視線恐怖症、対人恐怖症の人への指導(生き方療法第4法則) ・聴聞の4つの心がけ。 ・親を恨んでしまう。(親の大恩十種) 第9回(平成10年6月16日収録) ○仕事のストレスで、欝状態、強迫神経症に。人生の目的(金剛の幸福) ・人生の目的を知ることの重要性。 ・二種類の幸福。 ・人間の五願。 ・金剛の幸福になった東条英機。 第10回(平成10年7月20日収録) ・休まずに参加するべし。 ・対人恐怖、四重の破人(非難攻撃に動じない心) ・魂の輝きを取り戻したい。金剛の幸福になった人に近づけ。 ・不登校、学校もアルバイトも続かない。 ・やりたいことが見つからない。恋愛したらどうか? ・人を妬んでしまう ・完全主義者、確認症、浄穢不二。 第11回(平成10年8月16日収録) ・ストレスの無い世界とは。 ・放射能恐怖(輸入食品が気になる。) ・自殺することの愚かさ。 ・男の心、女の心。 第12回(平成10年9月15日収録) ・なぜ聴聞をすると強迫観念や確認症が治るのか。 ・抗欝剤を止めたら肩こりになった、どうすればよいか。また、幼児に 仏教を教えるにはどうしたらよいか。 ・嫁と姑の関係を上手くゆかせるには。 ・仕事は生き甲斐になるか。 ・12年間閉じこもり。家庭内暴力が続いている、。 第13回(平成10年10月11日収録) ・肉体的、能力的コンプレックスで人と上手くつきあえない。 ・職場を替るたびに嫌な上司や意地悪な同僚にあたり、仕事ができな くなった。 ・人前で字を書こうとすると手が震える。、 ・自分の苦しみを周りの人が全く分かってくれない。 第14回(平成10年11月17日収録) ・金剛の幸福を生き甲斐にすると宗教に走るのではないかと心配。 ・某宗教団体に関わって、借金を抱えてしまった。 ・彼氏と別れてから息苦しさが離れなくなった。 ・パニック障害、過敏性大腸炎。 ・頭でやりたいと思うことを体が実行してくれない。 第15回(平成10年12月23日収録) ○因果の道理 ・「人のせいにしない」が納得できない。幼児期の環境が原因では?三 世が信じられない。 ・善いことだと思ってやっていたのに、時間が経って悪い結果が返って きたらショックが大きくなるのでは。 ・子供の頃いじめられた時の夢を見て以来、独りになると嫌な思いが浮 かぶようになった。 ・最初は乗り気だったが、2回3回と参加するうちに「治す自信がない。」 と言い出した。 第16回(平成11年1月15日収録) ・優柔不断、口下手で付き合いが苦手。性格が嫌で自己嫌悪に。性格は 変えられます。 ・殻に閉じこもって出られない。どのように人とコミュニケーションを 取れば良いか分からない。 ・視線恐怖、自分が変に思われているのではないかと気になる。 ・予期不安で心臓がドキドキする。 ・仕事で注意されたことを深刻に考え込んでしまう。 ・人と話をしようとすると頭の中が混乱して話が出来ない。 第17回(平成11年2月11日収録) ・自分は人の何百倍も努力しているのに悪い事ばかり起きる。 ・親は自分に世の中の矛盾を教えてくれなかった。 ・ふとした言葉で彼の態度が急変。男女間の禁句とは。 ・人間の愛の4つの欠点。 第18回(平成11年3月22日収録) ・仕事が続かない。上司との人間関係が上手くゆかず、こんな会社にい ても大丈夫だろうかと不安になり、欝状態になって会社に行きたくな くなる。生き甲斐のある人生を送りたい。 ・頭の中を読まれているような気がする。 ・他人と話す時言葉が詰まる。 ・金剛の幸福とは何か。 第19回(平成11年4月11日収録) ・確認症で仕事が出来ない。未来に不安を感じる。 ・いつも家族を思い通りに動かそうとする。こんなに自己中心的な性格 で治りますか。 第20回(平成11月5月5日収録) ・自分が世界で一番不幸だと思う。 ・生き甲斐ある人生を送りたいと思うが、このままでいれば何も起こ らず、無駄な努力をする必要もないからいいかなと思ってしまう。 ・内にこもって実行できない。真っ先に何を実行すれば良いのですか。 第21回(平成11年6月11日収録) ・自分の考えが表現できない。自分の中に物差しがない。 ・キリスト教は矛盾があるかもしれないが、マザーテレサのようないい 人もいるではないか。 第22回(平成11年7月20日収録) ・黄金食に胚芽米を使用してもいいか。 ・神道を信じながら生き方療法はできるか。 ・神道を信じながら予備校へ行っていて良いですか。 ・どうしたら生き方療法を実行できますか。 第23回(快気祭・平成11年8月15日収録) ・劣等感で悩んでいる。欠点を気にせず前向きに生きるには。 ・摂食障害。黄金食は食事をコントロールするので、それがストレスに なって過食になるのでは? ・摂食障害の原因は自分が太っていることにあると思う。 ・一時的な楽しみで紛らわすのは駄目か。 ・なぜカウンセラーによる治療で治らないのか。 ・恋愛をしてもいいのか。 第24回(平成11年9月23日収録) ・不安発作、予期不安のため何も出来なくなった。悪い自己暗示をして しまう心はコントロールできますか。 ・無実の罪を着せられる等、自分がやっていないことの結果を受けるこ ともあるのではないか。 ・悪い結果が返ってきても、自分の種蒔きが返ってきたのだから、加害 者を追及してはいけないのか。 ・長年、名利を求めてきたので我利我利亡者を演じている自分に気づく。 第25回(平成11年10月11日収録) ・神経症を治すのに宗教が必要なのでしょうか。 ・学校崩壊などの近年の社会問題の原因は無宗教だからか。 ・人付き合いが苦手。希望の仕事に就けず収入が少ない。恋人も出来な い。将来が不安である。 ・劣等感をなくしたい。人の顔色ばかり気になって打ち解けられない。 第26回(平成11年11月25日収録) ・自利利他の法則では「自分を捨てよ」といわれます。私は少林寺憲(拳)法 で、自他共楽(半分は他人の幸福を考え、半分は自分の幸福を考える) と習いましたが、自利利他と自他共楽は同じではないのでしょうか。 ・捨てれば生きる。「求法太子」のお話。 名古屋 第1回(平成11年12月4日収録) ・真実の自己「悪性さらにやめがたし 心は蛇蝎のごとくなり 修善も 雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」 ・人生の目的が分からなかったことが苦しみの原因だと気がついた。 ・自分が言おうとした言葉が喋れない。 ・強迫観念、水銀恐怖。 第27回(平成11年12月23日収録) Q、不道徳な行為をしている人を見ると腹が立つ。どう対処すればよいか。 Q、悪とは何か、正義とは何か。 A、相対的善悪、絶対的善悪。「善悪の二つ 総じてもって存知せざるな り」 Q、現代は女のほうが得をしてずるいと思う。 Q、大変苦労をし、良かれと思って一所懸命子供を育てたのに、少しも感 謝せず悪態ばかりつく。 A、「ひまわりも 上目づかいの 暑さかな」 第28回(平成12年1月23日収録) Q、昔は明るかったのに、今は無口。全てが色あせ、生きる目標が持てな い。どうしたら元の社交的な自分に戻れるか。 A、・全てが色あせるのは、無常の幸福を求めたから。人生の目的を知る べし。 ・明るく社交的になるには、自利利他の精神で生きるべし。 第29回(平成12年2月11日収録) Q、父親に虐待されて育った。家から逃げるために受験勉強をしたが、悪 い成績を取ってから恋人に依存するようになった。 A、因果の道理。縄を恨む泥棒、本当の自分がわからないから他人を恨む。 第30回(平成12年3月20日収録) Q、ひどいいじめに遭った。性善説を教え込まれて苦しんでいたが、「我 利我利亡者」のお話を聞き、だいぶ楽になった。昔は楽しめたことが、 今では全く楽しめなくなった。 Q、何が生き甲斐なのか分からない。心療内科の先生に相談したら「あな たは間違っている」といわれ薬を出された。 Q、過去に拒食症、不眠症も持っていた。不眠症は今も治っていない。 A、「人身受け難し、今すでに受く仏法聞き難し 今すでに聞く この 身今生において度せずんば さらにいずれの生に向かってかこの身 を度せん」 A、「分け入れば 金銀瑠璃玻???赤珠( 山ぶどう」) 「こら阿弥陀 助けたいなら助けさそ 罪はわたさぬ よろこびのもと」 第31回(平成12年4月9日収録) Q、歴史学者への夢を断たれ「人生の目的」を失った。今から新たに人生 の目的を見つけるのは難しそうだ。どうすればよいのか。 Q、義理の兄が突然亡くなった。その変わり果てた姿を見たら、全てがむ なしくなってしまった。生とは死とは、いったい何なのでしょうか。 Q、庭で奇妙な音がしたり、煙のようなものが見えたりします。あれは何 なのでしょうか。 第32回(平成12年5月14日収録) Q、他人と一緒に映画やテレビなどを見るとき、緊張してしまう。物音が 気になる。風水で動いてはいけないと出ていた時に動いたからこうな ったのではないかと思う。今は薬で抑えているが、本質的に気になら ないようになりたい。 A、風水は迷信、関係ない。 A、人生の目的を知り、その目的に向かって生きること。人生の目的は金 剛の幸福。無碍の一道に出ること。歎異抄「念仏者は無碍の一道なり、 信心の行者には天神・地祇も敬伏し魔界外道も障碍することなし」 第33回(平成12年6月16日収録) Q、視線恐怖、不安症、人と視線が合わせられない。一旦合せるとはず せなくなる。 Q、人生の目的、金剛の幸福が知りたい。 A、生き方療法は相対心身療法。大きな苦しみを知れば、小さな苦しみは 気にならなくなる。死の苦しみの解決を求めよ。金剛の幸福になった 「東条英機」 Q、陰口を言われ、いじめられてから、腹痛、吐き気、微熱などの身体的 な症状が出始め、学校に行けなくなった。何をすればよいのでしょう。 A、陰口、悪口はありがたい言葉。蓮如上人「我が前にて申しにくくば、 蔭にてなりとも我が後言を申されよ」 第34回(平成12年6月17日収録)(名古屋) Q、ほこり、しみ、「立てかけたものが倒れるのではないか」「人に言った ことが間違っているのではないか」という強迫観念。確認症。どうし て、このような症状が出るのか。どうしたら直すことが出来るのか。 A、因果の道理、すべてのことには原因がある。 Q、対人恐怖。他人の視線が気になる。人からどう思われているかばかり 気にしている。また、自分の視線がきつく、睨んでいるように見られ て悩んでいる。陰口を言われるのではないかと思うと自分が嫌になる。 第35回(平成12年7月20日収録) Q、自分に自信を持ちたい。 A、自信を持つには、人生の目的を知る事が大切。「人身受け難し今已に 受く」盲亀浮木の喩え、天上天下唯我独尊。 Q、パニック障害で初めて発作を起こした時味わった「死の恐怖」が頭か ら離れず、神経症が治らないのではないかと思う。 A、死から逃げているから余計に苦しむ。死の解決に向えばパニックの 不安は消える。 Q、確認症、身だしなみやクレジットカードの存在が気になる。 A、心の問題とともに肉体も健康になり、心身ともに健康にする事。 Q、自信がなく、仕事を全て拒否したくなる。怒りっぽい上司に話し掛け にくい。 A、苦しみから逃げてはいけない。宮本武蔵の剣法。 Q、疲れやすい体質。 A、黄金食をやって下さい。 Q、決断力のない性格で困っています。 A、仏教をお聞きすれば決断力がつく。 第36回(快気祭・平成12年8月20日収録) Q、PTAや夫のことで自律神経失調症になったことで、心と体は一緒な のだと気付いた。自分が苦しんだ経験を生かして、人を助けたい。 A、色心不二。世の中の常識をぶち破った「自利利他」の教え。 Q、なぜこんな病気になったのか、根っこを断ち切りたい。 A、人生は苦しみの花咲く木。仏教は苦しみの根っこを断ち切る教え。 還来生死輪転家 決以疑情為所止 Q、劣った人を見ると見下し、優れた人を見ると、対人恐怖を感じる。 人を馬鹿にするので、因果応報で馬鹿にされる結果を受けてしまう。 すぐ天狗になる。 A、因果の道理。真実の自己を知ると自惚れ心がなくなる。 Q、電車で対面して座るのが耐えられない。露出の多い女性が歩いてくる と罪になると思って見れない。 A、阿難尊者に惚れたスードラの女。不浄観の話。 名古屋第4回(平成12年9月2日収録) Q、確認症と強迫観念。4とか9という数字にこだわる。 A1、浄土真宗は迷信を嫌う。日の善し悪し、吉凶、姓名判断は皆迷信。 A2、簡単に治ったと思うな。繰り返し身につくまで聞け。 A3、利他をしなければ自利はない。 Q、対人恐怖。人と話をしようと思うと落ち込む。恋人が私といて楽しい か心配。 A、利他の心を起こすには、まず聴聞。聴聞の4つの心掛け。時間は作る もの。 第37回(平成12年9月15日収録) Q、潔癖症。性的なものを汚いと感じる。Hなビデオが体に触れると手や 体を洗ってしまう。 A、真実の自己を知れ。「悪性さらに止めがたし 心は蛇蝎の如くなり・・・」 人間は皆、悪人。邪淫を犯したガンジー。売春しようとして捕まった イギリスの検事総長。刀葉林地獄。人間は簡単に悪を造る(大毘婆沙 論)。 Q、狭心症を起こし体調を崩した。妻と喧嘩し、怒りが修まらず、また具 合が悪くなるのではないかと心配で、不眠と悪夢に悩まされる。 A、男と女は価値観が違う。理解できないものだと理解せよ。 Q、夫と仲良く暮らす事が人生の目的だと思っていたが、結婚して12年、 今は生き甲斐が感じられない。結婚は無常の幸福か、金剛の幸福とは どのような幸福をいうのか。 A、無常の幸福、金剛の幸福。人間の愛は続かない。金剛の幸福の説明。 第38回(平成12年10月15日収録) ●礼儀の重要性。礼儀をわきまえず、しらないうちに人間関係を壊して いる。 Q、名誉欲が強い。自分が優れている事では他人を見下し、劣っている事 では些細なことでも劣等感を感じる。また、自利利他をすると、人が 先に行ってしまうのではないかと心配。人の幸福を願うことが出来ず、 自分が不幸な時には、他人の不幸を願ってしまう。 A、真実の自己が分かれば救われる。「愛欲の広海に沈没し 名利の大山 に迷惑して・・・」懺悔即歓喜。真の懺悔は自己嫌悪とならず、歓喜とな る。 Q、声が低いので、人前で話すと恥ずかしいと思う。 A、人を助けようという気持ちが芽生えれば、声は大きくなる。 Q、パニック障害。胃の不快感、吐き気、めまいを感じ、乗り物に乗れな い。コンビニエンスストア、風呂場などにも入れなくなった。就職試 験不採用でストレスが溜まり悪化した。 A、心の問題は心の専門家に聞け。仏教者こそ心の専門家。自利利他に「徹 する」ことの大切さ。 Q、やりたいことが沢山ある。早くパニックを治して、旅行や遊びに行き たい。 A、健康になるのは何の為か。人生の目的を知れ。
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グノーシスの神話:http //gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth005.html
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テレビ朝日系列 テレビ朝日 土曜 人生の楽園 スポンサー情報 土曜18時00分~18時30分 人生の楽園 2020年4月~20年6月 人生の楽園 2020年7月~20年9月 人生の楽園 2020年10月~20年12月 人生の楽園 2021年1月~21年3月 人生の楽園 2021年4月~21年6月 人生の楽園 2021年7月~21年9月 人生の楽園 2021年10月~21年12月 人生の楽園 2022年1月~22年3月 人生の楽園 2022年4月~22年6月 人生の楽園 2022年7月~22年9月 人生の楽園 2022年10月~22年12月 人生の楽園 2023年1月~23年3月 人生の楽園 2023年4月~23年6月 人生の楽園 2023年7月~23年9月 人生の楽園 2023年10月~23年12月 人生の楽園 2024年1月~24年3月 人生の楽園 2024年4月~24年6月
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テレビ朝日系列 スポンサー情報 テレビ朝日系 土曜 人生の楽園 スポンサー情報 人生の楽園 2024年1月〜3月 人生の楽園 2024年4月〜6月
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3年生の目次
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多様化するウェブサイトの目的 ウェブサイトが世の中に登場して十数年がたち、世界中でたくさんのユーザーが、日々インターネットにアクセスしています。しかし、この間にインターネットというものの本質的な部分では、大きな変化があったわけではありません。とはいえ、上場企業のほとんどが1つ以上のウェブサイトを持ち、中小企業においても、さまざまな形で事業に活用し始めている中、その使用目的は、非常に多岐に渡るようになってきました。 ■ウェブサイトの目的 (1)商品情報。EC(eコマース) 自社の商品(物やサービス)を紹介、販売して利益を得る事 (2)企業・組織情報開示 企業としての公開すべきと判断された情報を開示すること 最近では、社会貢献・社会的責任などを開示することもある ウェブ技術は、日進月歩ですので、「他社が採用したから、うちも」などという動機で、新しい技術を採用するのではなく、きちんとしたポリシーを持って、そうした技術を取り入れるべきです。その際には、書籍や雑誌の記事や人からの伝言ではなく、それぞれの技術のオリジナルな企画を十分に理解する必要があります。
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教育の目的「勉強は自分のためにするものなのか?」 とりあえず「国語教育の目的」を確認しただけですが、これだけでも様々なことが見えてきます。 この段階で「どうして勉強しなくてはいけないのか」という疑問について考えると、どうなるでしょうか。教育全体を通した根本的な意味での「教育の目的」について、簡単に見ていきましょう。 もちろん、教育全体の目的を見ていくためには、まだまだ確認すべき要素はたくさんあります。 しかし、いきなりその1つ1つをしっかり確認していこうとすると、かえって全体像が見え難くなってしまいます。いわゆる「木を見て森を見ず」の状態です。 細かい点は後々確認することもできます。まずは「森」としての全体像から眺めてみます。 全人教育 学校教育の根本的な目的を問う場合、まず強烈なキーワードとなるのは「全人教育」です。